私が大学時代の話しです。付き合っている彼女と別れたくて仕方がない友人がいました。なかなか切り出せずいましたが、ある日ふと彼は思いつきました。「恋人と行くと別れてしまうというスポット」に誘えば、自ずと悟ってくれるのではないかと、、、。そこで彼は、井之頭恩賜公園の池でスワンボートに乗る案を思いついたそうです。彼女に伝えると、ことのほか喜んでくれました。

当日は、晴天で清々しい一日であり、スワンボートは快適で心地よく、彼も心がウキウキしてしまったそうです。楽しい一日を過ごし帰宅。「楽しかったなぁ!ん?あれ??別れたくていったのに」、と思いつつ深い眠りについたとのこと。

「これではまずい!」と思った彼が次に思いついた作戦は、鎌倉の鶴岡八幡宮に行くことでした。ここも歴史的背景があり、「恋人と行くと別れてしまうというスポット」としてとても有名でした。

鎌倉デートの提案をすると、彼女はまたまた大喜び!!鎌倉の街並みを楽しみ、しっかり最後に鶴岡八幡宮でお参りをして、これで目標は達成できる!!!と思ったそうですが、帰りの車の中で今日一日の出来事を二人で振り返りながら楽しい一日が終わっていく。一向に別れの兆しが見えず、逆に絆が深まってしまったようです。

そして、今、彼は彼女と幸せな家庭を築き、3人の子供の父親で、よき夫、よきパパなのです。

人の縁はよく分かりません(笑)。
彼は「お別れ大作戦」を何度も決行しながら、今、そのお相手と幸せすぎる日々を送っているのです。

たまに聞く話ですが、「別れよう」と考え、いざ別れる直前になると、「やはり別れたくない」と思ったりするとのこと。

人は頭で考えていることと、心の中は、気づかないうちに齟齬があるのかもしれません。だから人間らしくていい。

時は、文治2年(1186年)4月8日、鎌倉の鶴岡八幡宮で源義経の愛妾静御前が、源頼朝、北条政子夫妻の前で舞った。

しかし、静が歌ったのは義経を慕う歌であった。

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
(吉野山の峰の白雪を踏みかけて山深くお入りになってしまった義経様の跡が恋しい)

「しづやしづ しづのをだまき くり返し、昔を今に なすよしもがな」
(糸を繰り返し巻いてできる苧環(おだまき)のように、時をも繰り返して、華やかであった昔と悲しい今を変えることができればよいのに)

まさに、義経は兄頼朝に追討され追われる状況下であった。

頼朝は、「八幡宮の御宝前で芸を披露するなら、鎌倉幕府の永遠の栄華を祝うべきであるのに、はばかることもなく義経を恋い慕って、離別の悲しさを歌うとはとんでもない!」として激怒します。

妻である政子は頼朝にこう言います。

「かって流人として伊豆にいらっしゃったとき、あなたと私は結ばれましたが、『平家全盛の時だけに、平家に知られたら大変なことになる』と恐れた父の時政は、私をひそかに家の中に引き込めました。それでも私はあなたを想い、暗い雨の夜に灯もともさず、激しい雨に打たれながら、あなたのところに逃げていったのです。石橋山の戦いの折には、一人で走湯権現に逃れ、あなたの行方を知りたい一心で、夜となく昼となく肝をつぶし、毎日生きた心地もしませんでした。今の静の胸中は、かっての私の胸中と比べて、「そうだろう」と思わせるものです。静の貞操さを思うと、まことに趣深く感じられます」と。

この政子の話に頼朝は怒りを解いたという・・・。

そして、卯花重(うのはなかざね)の衣を脱いで、御廉の外に出すと、静はこれを頂戴してうちかぶり退場したのだといいます。

その後、静は、奥羽の藤原氏を目指し逃げる義経を追いましたが、義経が亡くなったことを知り、今の埼玉県栗橋辺りで静は最期を迎えたそうです。現在、埼玉県の栗橋駅近くに静御前の碑がありますが、そこに静は眠っていると言われています。

4月の鎌倉まつりでは、「静の舞」を観ることができるそうです。

私の友人の例でも分かる通り、少なくとも、鶴岡八幡宮は「別れの場」というよりも、「愛する二人が気持ちを寄り添う場」なのではないでしょうか。

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